生まれ育った宝塚、今日は娘と舞台鑑賞。
宝塚のOBの方にSSの素晴らしいお席をとって頂き
大感激のかぶりつき〜
移転した宝塚ホテルで朝のお茶タイム、ふと気づくと懐かしい
前宝塚市長庄司様と目があい「元気でしたか、今何処に住んで何をしていますか?」
26歳イタリアから帰国後こどもミュージカル設立で一番お力添えくださった市長様‼️
1989年9月(26歳) ミュージカル・アカデミー・of・宝塚(略称MAT)が反響を呼び、お隣の川西市からも依頼され、 川西市にも子どもミュージカルが設立された。 続いて三田市にも設立された。
演目はやはり『サウンド・オブ・ミュージック』が最も多かった。 アイカはジュリー・アンドリュースが大好きで子どもたちと約100回くらいこれを上演している。
セイブザチルドレン、夢を追いかけ還暦に。
奇跡の再会でした。
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自分史から。。
塾に追われ、子ども本来の生き生きしたエネルギー発散の場を失っている現代っ子に、夢いっ ぱいの舞台で音楽の愉しさを体験させてあげたい。アイカはイタリアから帰国して子どもミュージ カルスクールの構想を当時の正司市長に話しにゆく。 ...1988年10月頃(26歳)
正司市長はあいかの父と親交があり、奥様は元宝塚歌劇団の方なので、アイカの想いを汲み 取っていただいた。そして 「さすがは道楽本舗の娘さんですね。」とおっしゃって、その後、市の教育委員会などから全面 的な応援をいたただくことになる。
すでに自宅でピアノや声楽を教えていた十五人の子を中心にさらに二十人くらい集まればと募集 したところ、予想を遥かに上回る二百人以上の応募があった。それはミュージカルへの関心と期 待の大きさを浮き彫りにしたが全員を収容するわけにはいかず、急遽オーディションを開催。審査 に当たったスタッフは身を切る思いで、八十人までに絞り込んだ。
1988年12月(26歳) ミュージカル・アカデミー・オブ・宝塚発足。
1期生には藤原紀香(女優) 相武紗季(女優)・相武ゆり(宝塚歌劇団 音花ゆり)・村田由香里(新体操 オリンピック金メダル選手)らがいた。
あいか自身は14歳でバレエと歌の練習を始め、芸術的な面においてプロの先生から学んだこと が、感情と関わるエネルギー体(アストラル体)を養ったので、感性が微細で豊かになり、芸術的な 面がさらに磨かれていった。
その柔らかくピュアな感性は、子ども達の心の動きを感じとり、そしてどうすれば子ども達が 心地よく成長できるのかを模索していた。
世界と自分との関係性において 自分が今、何ができるかを模索していたが、ついにイタリア留学後に思いが定まる。
オペラ歌手としてデビュー後、ますますその道を突き進むこともできたし、 周囲から見れば、それこそ、音楽大学でエリートコースを進んできたアイカの選択するべき道だっ たろう。しかし、イタリア留学後、アイカはその道に疑問を感じ始める。
オペラ以外でもアイカの音楽的活動はコンサートやリサイタルといった形で行われていたが、非 常に多くのお金が動き、多くの人を動かしているが、自分一人を囲んで、そういう時間とお金をか けることにも疑問があった。
未来を担う子ども達への思いが今まで以上に強くなった。 イタリアの文化と子ども達の文化的環境も知ってから帰国し、日本のどのような子にもその チャンスをと、子どもミュージカルを結成することを決意したのである。
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